大東市の川と舟運を夢想する
幻の深野池・三箇城址を歩く
大東市の川と舟運を夢想する
幻の深野池・三箇城址を歩く
1704年(宝永元年)に大和川の付け替えが行われるはるか以前の戦国時代、現在の大東市は舟運を中心とした交通の要衝として戦国武将が収めていました。中でも三好長慶の時代、域内には深野池、新開池という2つの大きな池があり、深野池にある島には飯盛城の出城として三箇城が構えられていたと伝わっています。
深野池は新田開発として埋め立てられ、現在ではその姿をイメージすることもできません。ただし、地名や伝承、また新たに整備された水路などをたどりながら、舟運が盛んだったころの近代の大東市の姿を重ねながら、現在につながる川のありようを夢想します。
新しいエコツアー(流域ツアー)の下見を実施しました。主に大東市北部で、江戸時代まであった深野池の散策をしました。歴史的に価値ある遺産や環境を市民が協力しながら維持している。なかなか面白いツアーでした。
スケジュール
9:00 開会/オリエンテーション
9:30 出発
住道駅→(バス)[10:00]→龗(おかみ)神社→御領水路→御領菅原神社→旧庄屋辻本家→永禄銘地蔵(西福寺)→三箇(さんが)城址・三箇菅原神社→水月院跡→寝屋川・谷田川→観音浜(野崎駅前)12:00 閉会/解散
※<ルート変更>三箇菅原神社→河内街道→観音浜から三箇菅原神社(チラシ掲載)→寝屋川・谷田川→観音浜に変更
オリエンテーションで本日のコース説明
戦国時代初期、河内キリシタン時代が描かれている陶板画(住道駅構内 )
三箇キリシタン、河内キリシタン時代が描かれている陶板画 。飯盛城、深野大池、岡山や砂、三箇にあった教会堂が描かれており、当時の様子をしのぶことができます。
大東市コミュニティバス 住道駅~御領神社前まで乗車
龗神社 おかみじんじゃ (御領神社)
南北に走る府道八尾枚方線沿い に水を司る龍が祀られているとされる龗神社があります。以前、東側に広がっていた深野池の堤防上にあり、堤防の決壊から集落を守るため、水を鎮めるために水を司る神を祀ったのではないかと考えられています。
深野池の堤防には、現在府道がはしります。
御領地区
河内平野は、縄文時代には生駒山の山裾まで海が広がっていました。その後時代とともに水が引いていき、弥生時代の終わりから古墳時代ぐらいに河内湖となりました。平安時代になると湖は次第に縮小し「勿入渕(ないりそのふち)」と呼ばれる池となり、池が小さくなるにつれて周辺一帯は湿地帯となっていきました。池の西側の御領では、鎌倉時代に集落ができ始めたことが発掘調査によりわかっています。これは池の周囲に堤防が築かれたことによって、池の範囲が確定し、周辺の湿地が人の生活できる環境となったからで、それが13世紀中ごろといわれています。この池は江戸時代になると深野池と呼ばれるようになります。その後集落と農地が拡大するにつれて水路も数多く作られ、道路のような役割を担い始めました。水路は昭和まで残っており、この地域特有の水郷の風景をみることができました。現在は水路の一部約290mを「御領せせらぎ水路」として保存し親しまれています。
三枚板 田舟
御領村は古くから水路が村の中を縦横に走り、そこを三枚板と呼ばれる農業用田舟で移動し人や農産物が盛んに行き来していました。昭和の時代までは、御領地区の民家の裏には必ず水路があってそこに着き場があり、畑や田んぼの横まで舟で行けました。舟は「三枚板」といわれ、長さ約8.2m幅約1.1mで、三枚板は、三枚の板を組み合わせて舟を作っています。一枚目は船の横に、二枚目は反対側の横に、三枚目が底板です。田舟は“三枚板”と呼ばれるものです。
水路の水は寝屋川から注水していましたが、寝屋川の方が随分高く落差がだいたい家の3階分くらい5m強あったようです。舟で大阪市内まで行くときには、この落差を超えるための「水門」が二つあって、その中で水位を調節し水路から寝屋川へ、また寝屋川から水路へ三枚板を移動させていました。地元の人々はこの水門を「スエズ運河」と呼んでいたそうです。昔、この辺に医者がいなかった時代には、病人を三枚板に乗せ心斎橋まで行ったこともあったそうです。
御領 菅原神社
菅原道真を祀った御領菅原神社です。 由緒は不詳ですが御領地域の開拓時の氏神として祀ったものと思われまう。2本の大きなクスノキが印象的です。
辻本家
辻本家は、江戸時代に御領村の庄屋を代々つとめた旧家です。
屋敷地の中央にある木造平屋建、鋼板葺(元は茅葺)の主屋は、江戸時代後期の天保5年(1834)に建てられたもので、平成27年8月に大東市で初めて国登録有形文化財に登録されました。
表側正面には上層農家だけに認められた式台(身分の高い客人用の玄関)が構えられ、内部には広い土間と広敷(土間に面して設けられた板敷の間)が、奥には床の間を備えた八畳の座敷などがあり、江戸時代後期の庄屋屋敷の特徴を伝えています。
建物の規模は大きく、使用されている材木も太いものです。内部には広い土間と広敷(ひろしき)※があり、その奥には床の間を備えた八畳の座敷をはじめとする部屋があります。また表側の正面には上層農家のみに認められた式台(しきだい)※を構えており、庄屋屋敷に相応しい格式を有した建物です。
現在、主屋は非公開となっていますが、年に数回程度、特別公開を実施されています。
<用語解説>
※広敷(ひろしき)
土間に面して設けられた板式の広間。
※式台(しきだい)
身分の高い客人用の玄関。
平成24~25年に行われた改修工事により、主屋の表側(北側)は建築当初の形式に復元され、裏側は現代の生活スタイルにあった住みやすい間取りに改変されました。
永禄銘地蔵(市指定文化財)
西福寺横に永禄銘地蔵があります。ここには、頼尊越後助(らいそんえちごすけ)という人物が永禄元 年(1558)に逆修 ぎゃくしゅ の(生前に死後 の供養を行うこと)ため大乗の妙典を1000回読経をし供養し たことが刻まれています。永禄期は戦国の世、畿内では三好長慶が、覇権を握り、同3年に飯盛城を本拠と定めます。従って、この地蔵は、戦乱の世に活躍する武士、頼尊越後助を含めた武士達の明日をも知れぬ場に身をおいた信仰生活を知る上でも貴重な尊像といえます。
御領の水郷保存運動
区画整理によって使われなくなったほとんどの水路が道路へと変わっていく中、御領地区では約1年をかけた議論の中で「水路のある風景と歴史を残したい」という住民の声で「御領せせらぎ水路」が整備されました。水路ではきれいな水を保つために、9時から21時まで東大阪の鴻池浄水場からパイプで引っ張ってきて水を流しています。また、地元の有志約20名で「御領せせらぎ水路保存会」を組織し、年に二回洗浄機を使って水路の大掃除をしています。水路には鯉、フナ、金魚、ザリガニ、亀、メダカ、などの生き物がおり、睡蓮を植えたりして大切に管理され、美しい景観が保たれています。
景観は水路だけでなく、自治会館は瓦屋根にして古い街並みにふさわしいようにし、地元の協力も得て周りの家も街並みに合うようにし、とても素敵な水郷の風景を楽しむことができます。
ふるさとLOVERS 地域の人が守り、受け継いだ御領地区の風景
三箇 菅原神社
創建年代は不明。菅原道真を祀っています。地元では「三箇の宮さん」と呼ばれ親しまれています。神社の前に「三箇城址」の石碑があります。三箇城は、深野池の中にあった島に築城されたといわれ、戦国時代には飯盛山城の支城でした。正確な位置は特定されていないので、候補地のひとつです。境内西側に、かつて水月院という寺があり現在も墓石が残存していますが、七代目院主の墓石には三箇頼照(洗礼名:サンチョ)の「城ハ灰 埋は土となるものを何を此代に思ひ残さん」の辞世句を記す墓石があります。
<案内板記載文>
『祭神は、天満大自在天神の称号を授与された菅原道真公である。大祭は十月十九日、二十日。 社地内には稲荷社が鎮座する。天神さんもお稲荷さんも、稲作を中心とする五穀豊穣の神である。住道地区の氏神で、延宝七年(1679)「三箇村検知帳」には、「氏神天満宮」と記され、 境内地十八歩の年貢が免除されていた。また江戸中期頃の当社は梁間五尺五寸、桁行一間二尺の社殿を持ち、 西の隣接地には曹洞宗宇治興聖寺末・水月院があった。 現在も墓石が残存し、江戸時代までの神仏習合の面影を残している。 社宝として神刀がまつられる。これは神威の高揚を願って、宝永年間の氏子たちが奉献したものである。 相州綱廣の銘あり。往時の秋祭りには西の口、江の口南、江の口北、大箇、下野、押廻からの地車 計六台が引き出され社頭に並んだ。 この宮入の順番は十八日くじ引きで決められる。また当地は十六世紀半ば頃飯盛城の支城・三箇城のあったところとされている。 城主三箇殿は永禄五年キリシタンとなりサンチョと称す。 この時以来三箇の名は異国文書に登場する。 城の位置については諸説あって断定し難い。なお、水月院跡には「城ハ灰 埋は土となるものを何を此代に思ひ残さん」 の辞世句を残す墓石も見いだされる。平成五年十二月 大東市教育委員会』
<大東市文化財絵はがき第1集表紙絵>「深野池絵図」片山長三画(昭和30年・個人蔵)
三箇城と三箇キリシタン <JR住道駅前案内板記載文>
16世紀後半の戦国時代、大東市の平野部には湖のような大池(深野池)があり、三箇の地は、南北に連なる三つの島に分かれていたとされている。その島の一つに築かれた三箇城は水運の要所であり戦略的に重要な城であった。城主三箇伯耆守頼照(さんがほうきのかみよりてる)(三箇サンチョ)は、飯盛城を居城として五畿内(ごきない)(山城・大和・摂津・河内・和泉)を制圧した三好長慶(みよしながよし)の重臣であり永禄7年(1564)飯盛城で洗礼を受け熱心なキリシタンとなった。
宣教師ルイス・フロイスがローマへ宛てた書簡には、サンチョは「善良、高潔、賢明で真の父のような人」「日本の教会が五畿内地方で有する最も堅固な柱石の一人」と高く評価されている。また、書簡には城と別の島に聖堂を建て、「湖上の聖堂で15年の間、復活祭と降誕祭(こうたんさい)が祝われた」こと、彼の家族や家臣も皆熱心な信者となり、ある時は各地から参集した司祭や信者たちを饗応(きょうおう)し、胡弓の伴奏で讃美歌を歌い、またある時は大小 90隻以上の船を浮かべ魚を獲り、キリシタン劇を上演し、盛大に復活祭を祝ったこと、信者、見物人ら約3000もの人が集まり五畿内で一番大きく奇麗であったことも記されている。このように三箇城と三箇キリシタンは、遠くヨーロッパまで知れ渡っていた。
大正8年、大阪府の調査により、三箇6丁目に「三箇城址」の石碑が建てられた。現在、石碑は三箇5丁目の菅原神社前へ移設されているが、三箇城の正確な位置はまだ確定したものではない。
上の絵は、当時の深野池と三箇の島を描いた想像図で、教会や聖堂が建ち、遠くに描かれている山が、飯盛城のある飯盛山である。住道駅構内にある陶板画壁画はこの絵を基に製作されたものである。
大東市教育委員会
観音浜
野崎小唄「のざきまいりは屋形船でまいろ~」元禄の時代から続く5月の風物詩「野崎まいり」ですが大坂・八軒家浜から大川、寝屋川を経由し住道で屋形舟から田舟に乗り替え、観音浜で田舟を降りて、野崎観音にお参りしたといわれています。