「人・まち・自然のつながり」
昔、大東市にマッコウクジラが回遊していた河内湾
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ごあいさつ
みなさんこんにちは。寝屋川・恩智川流域環境フォーラムの尾崎です。きょうは、大東市の様々な遺跡、史跡を見ていきたいと思います。大東市と言いますのは大阪市内の東部、飯盛生駒山系の東部に位置するところにありまして南側には東大阪市、北側に四條畷市に挟まれたところが大東市です。今日は「人・まち・自然のつながり」ということで昔、大東市にマッコウクジラが回遊していたというお話をしていきたいと思います。
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飯盛山系上空から見た・・平野部の歴史遺産と各地域
(写真)これは飯盛山系の麓、昭和17年の航空写真です。赤のラインは阪奈道路で昭和33年2月25日に有料道路として開通いたしました。この地図に示してありますように堂山古墳群をはじめ飯盛山系麓には様々な遺跡と神社仏閣をが点在しています。
続きましてこれは、昭和22年にGHQアメリカ軍司令部によって撮影された写真です。黒い線は大阪外環状線(170号線)で昭和40年に開通、青い線は江戸時代(当時の)深野池の東の境界です。赤い線は約5500年前縄文時代の中頃に海が大阪、河内湾がせりつめていたところでです。
次の写真は、大東市文化財保護推進会という会が地域の歴史を色々と見ていこうと、深野池の西側の境界と東側の境界を自転車に乗って先輩たちと地道に調査しまして線で表したものです。現在の地図に記しているのでよく分かると思います。
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地球環境変動
(こういったところを)地球環境の変動というところから見ていきたいと思います。
私たちの住む星、地球が誕生したのは約46億年前と言われています。その後、幾度の激しい地球環境の変動の中、今から100万年前の日本列島は極寒期の環境だったと言われています。日本列島はユーラシア大陸とひっついていて、中程ににあるのは日本海ですが、朝鮮半島、樺太島もくっついた状態になっていました。
約60万年前すでに人類が私達の日本列島に住んでいたと言われていますがマンモスやヘラジカがシベリアから樺太を通って渡来してきていますし朝鮮半島からはナウマンゾウとかオオツノジカが渡来してきています。旧石器時代、大陸とつながっていた日本列島ですが今から約2万年前の氷河期の時代に日本列島では様々な場所で火山噴火が発生しています。
一つは大阪府と奈良県の境の二上山が噴火しています。その折に出来たのが、あのサヌカイトという特殊な石です。サヌカイト石ができたと同時期に、北海道の遠軽町の白滝遺跡に当たるのですが、ここでも火山が爆発が起き、特殊な黒曜石という石が生まれています。
何故このような特殊な石が生まれているのかと言うと、当時は極寒氷河期の時代でマグマが爆発し、溶岩の流れと同時に急冷されてこういった自然環境の中で、特殊な黒曜石とサヌカイト石が生まれたものと考えられます。人類はこのような石を掘りあてて生活用具の石器に加工していったんですね。この石は特に固い鹿の角などでパンと叩きますとサクッとわれまして鋭い刃物になったところから生活用具に使われていたわけです。
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私たちの大阪平野を見ていきますと
古代大阪平野の時代(日本列島が大陸とつながっていた寒冷期の時代)
古代大阪平野時代と言われていますが、約2万3000年前は私たちの大東市には大きな古深野沼という湖がありました。交野市あたりから四條畷市それから大東市と東大阪市に至る深野沼が生まれていたわけですが、この当時から人類が生活をし、ナウマンゾウが生活をしていたあたりになると思います。
約1万2000年前、古河内平野の時代といわれておりますがこの時代から徐々に極寒期から最終氷期に近づいてくる気候になっていきます。気温も上昇し海面は少しずつ上がっていきます。でこの時代なんですが大東市の中垣内遺跡でナイフ型の石器が出てきています。これはあの先ほどの二上山の噴火で生まれたサヌカイト石でつくられていて発掘されています。押型文という特殊な土器も発見されています。
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古河内平野から河内湾へ
続きまして縄文時代の早期、約9000年前になると背面がリアス式の海岸のようにだんだんと山に入り組んできています。もうこの時代には寺川遺跡、鍋田川遺跡、宮谷遺跡と色々な遺跡が点在しています。そして先ほどのサヌカイトの有舌尖頭器という特殊な動物の出るのような形の大きな矢尻も大東市の北条の宮谷古墳群から発見されています。おそらくを棒状のものにくくりつけて動物を捕獲していたのかなと思われます。当時の古代人縄文人はこの深野沼を中心に生活の拠点を置いていたと思われます。
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河内湾の時代
そして縄文時代の中頃なんですが5500年前この時代にはもう、大阪湾から河内湾と生駒山の山裾までで海水が入り込んできています。私たちの大東市もこの大型のマッコウクジラ、大型のエイなんかもこの河内湾を回遊していたと言われています。自然堆積層の所からマッコウクジラの骨が発見されています。先ほどの外環状線の道路を作られた時にブルドーザーで大東市から東大阪市の布市町あたりで自然堆積層の砂地あたりからマッコウクジラの骨が発見されています。東大阪市の郷土資料館で常設展示されていますのでまた興味のある方は見に行っていただきたいなと思います。そして大阪市自然史博物館でもマッコウクジラの骨が展示されています。地下鉄今里駅あたりで地下鉄工事の時にミンククジラの骨も発見されています。
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河内湾の時代を横から見ると
(写真)横から当時の模様を見ますとちょうど上町半島(台地)の右側、現代の大阪城がある地点ですが、非常に南北にせり立った半島があってその中海となっているわけです。現在でもその面影が残っていて大阪城からJR森ノ宮の駅に歩いて行くとゆるやかな坂になっています。これは内海で非常に緩やかな波際だったのでそういう形になっています。谷町4、6、7丁目あたりから西の方におりますとすごく階段が多いわけです。急な階段が多いですね。当時は波がせり立ち打ち上げられていたので岸壁のような形になった状態になっています。
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河内湖の時代
縄文時代の後期から弥生時代の見ていきますと徐々に河内湾から河内湖という形に小さくなってきています。水の力はすごいもので淀川、大和川、それから生駒飯盛山脈から流れてくる水によって土砂が流されて(土石流)こういうデルタ地帯になってきているのです。北新町遺跡が調査された折に、珍しい翡翠(ヒスイ)の緒締(おじめ)形勾玉が発見されています。この辺りは当時はデルタ地帯にあたる所で、河内湖の水際で生活用具の何かを洗っていたのか魚を捕っていたのかわかりませんがおそらく落としたんだろうとわれています。
もう一つは石剣です。以前は海の底であった大東市の新田北町でサムカイト石で作られた石剣が見つかっています。この石剣の根元に木を紐で結んでおそらくを当時の人は木舟に乗って、当時回遊していたウシサハラなどといった巨大魚を((イラストの)下の人が泳いでいるのと比べるとかなり大きいですが)捕獲するために木船から投げた槍がおそらく外れて湖の底に沈んだものと思われます。
こういったことを専門に調べておられた学者さんがおられまして地質学者の梶山彦太郎さんと市原実さんです。約2万年前のウルム氷河期の時代から縄文時代を経て現在まで克明に調査されたことで「大阪平野の発達史」が明らかになりました。
上町台地と河内湖の時代に生息したセタシジミというシジミは現在も琵琶湖に生息していますが、元来の日本のシジミは((写真の)一番左側にあるように)色が非常に黒いです。外来種といわれるタイワンシジミはやや色が薄く、その間の雑種も生まれてきていますが、淡路町のあたりでこのセタシジミが生息をしていた事が発見されたわけですので河内湖は真水であったということですね。
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古墳群と遺跡について
河内湖の時代(縄文時代後期から弥生時代)遺跡
古墳群と遺跡について見ていきたいと思います。先程の写真ですが丸く円を描いているところが堂山古墳群です。そしてその堂山古墳群の隣あたりに鍋田川遺跡があります。鍋田川遺跡は古墳時代の前、弥生時代の様々な遺物が発見され、特に金属文化の証とも言われる羽口が出土しています。
弥生時代の中垣内遺跡からは石包丁それから石斧・土器片も発見されています。中垣内遺跡は外環状線の際ですけれども(このイラストは)当時はこのあたりまで湖が来ていてこういう生活様式で人々が暮らしていたのかなという想像の図です。(高床式住居に)水際のところで丸木船が見えますが湖の生物、魚介類なんかを取りながら生活していたのかなと思われます。
鍋田川遺跡から非常に珍しい占いに使用する卜骨(ぼっこつ)それから石製鏡、骨製品、鹿の角などが土器と共に出てきています。(上の写真)鹿の角を刻んでいますがこれをどのように使用するかといいますと、この刻んでいるところに細い棒を滑らすとビヨン、ビョンと音がなるわけですね。それからその下(の写真)に猪の骨の卜骨(ぼっこつ)があります。卜骨(ぼっこつ)というのは焼いた鉄を骨に当ててその焼きの割り(割れ目)から今年はお米がどの辺りで取れるか、たくさん取れるかという占いに使用されました。これは現在も天皇が代わられるときに儀式として続いています。
(写真右端が)先ほどお話した(金属文化の証とも言われる)金属製の羽口です。これは粘土で作った炉に空気を送る道具です。羽口はどのように使っていたのかというと、(イラスト)女性が鹿の皮の袋から空気を送っていますね。空気を送っている青い筒の先についているのが羽口なんです。空気を送って火の温度を高めて金属を鍛錬するということですね。当時これがあるということは鍛冶の炉があったということにもつながってくるわけですね。ですから石器時代から金属文化に移り変わる弥生時代の遺跡から羽口が出てきているということは非常に興味が湧いてきます。
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古墳時代
堂山古墳群
堂山古墳にも勾玉という石が出てきておりますが、古墳時代にはこのように(写真)古代の人々の工房があったのではないかなと思われます。
昭和44年の12月に寺川の地域の古代研究家の人たち地元の人たちが堂山古墳を発見されたわけです。当初何カ所か試掘して4回か5回目で小さな穴のところでカチッと当たったらしいですけれども、それが金属文化の破片であったと言われています。すぐさま大東市の教育委員会と大阪府の教育議会に連絡されて専門の考古学者が調査されたわけです。調査されるまでに寺側の住民の方に堂山古墳の樹木を伐採したりきれいに整地をする依頼がありまして私もその中で活動させていただきました。
全景を見ると発見の1号古墳の西側から見ると(写真)こういう形になっています。手前の大きなものは1号古墳の 円墳と言われているところです。頂上からすぐ下の辺りにあるのは円筒埴輪で69個並べられています。調査の中で発見されたんですが珍しい69というのはなぜなのかなというところも興味をそそるところなんですが、その上側にずっと尾根を上がっていきますと、集合古墳の2号古墳、3号古墳、4号、5号、6号、7号古墳というところまで調査されています。左側の写真は現在の堂山古墳で下から見るとこういう形になっています。
(写真は)考古学者が堂山古墳の発掘調査をされているところです。左側の置かれている石のところに見えるのは鉄の兜ですね。当時は恐らく木箱に入れて石を上に置かれてたんでしょうけれども木が腐り石の重みで兜もちょっとへしゃげた状態で発見されています。右側の石がずらっと並んでいますがここには鉄剣、それから鉄刀、矢尻なんかが発見されています。
中央の被葬者のところには勾玉その両サイドには短剣とか小刀なんかが見えますが発見されています。珍しいことにこの堂山1号古墳は金属文化が非常に多いということです。ということでこの豪族被葬者は河内湖を見下ろす、阪平野を一望にできるところの大きな勢力を持っていた豪族ではないかなと想像されます。
(写真は)先ほどの発掘調査の様子を側面から見たところです。(まだこの時には)この石の下から(遺物が)取り上げられておらず、測量など調査されている様子です。
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(この写真は)その後発見された勾玉です。私も色んなところで勾玉見るのですが非常に色艶が良く加工の技術を優れています。これは翡翠(ヒスイ)ですが(技術的にいうと)金属が5の高度としたら翡翠は7と言われているので、加工をするにも非常に時間がかかったであろうと思われますし、それにこの穴なんですが見事に綺麗にあけているんですね。現在のようなドリルもない時代にこれだけ綺麗にあけているのは考古学の中でもまだまだ謎が多いなと思います。
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これは(写真)鉄剣と鉄刀(直刀)です。後ほど復元についてもお話させていただきますが。堂山古墳からは金属を文化が非常に(多く)出てきているわけですが、専門的な刀剣の分野から見ますと、右側は(写真)ほとんど平づくりの直刀ですが、(同様の)切刃づくりの直刀が正倉院に納められています。堂山古墳にも正倉院にあるものと同じく切刃づくりの直刀が副葬されていました。
直刀は帯刀されていましたが(この写真のように)聖徳太子が太刀をは佩いて(はいて)おられるのはまっすぐになっています。この時代は直刀の時代でありました。大東市から出土した副葬品の直刀をなんとか大東市に戻せないかと大東市の教育委員会に折衝しましたが、金属というものは腐食をします。当時、堂山から発見されて腐食処理をされたのですが、当時の腐食処理では金属のサビの中の塩分まで除去をできてなかったらしいということを後に専門の技師から聞いたことがあります。大東市に返還されてもこれをまた保存処理をしようと思うと莫大な予算がいります。
(ですので)これをお借りして復元(レプリカ作製)をすることになりました。当時鉄剣が保管されていたのは泉北考古資料館で、刀鍛冶のお二人と(研磨師の私が)一緒に実測に行ったときの写真です。下の写真は、大東市歴史民俗資料館には当時、土器などを修復する専門の女性の技師がおられまして、実際の堂山古墳の太刀と鉄剣を一片のサビも落とさずに型をとって石膏で固めたものを処理していただいているところです。
(写真)この作業も本当に苦労をしましたが、掃除機で吸っておりますが雨の時に傘を入れるようなナイロンををかぶせるようにして本体の直刀を入れまして、空気を吸いっぱなしにして石膏を固めているところです。当初は空気がぺちゃんこになって掃除機を止めるとうそれで流し込んだらまた膨らんでしまって失敗して、試行錯誤の中でようやく上手く型がとれました。そしてこれが(写真)鍛錬された肌模様の当時の刀である古代刀です。左側は柾目(まさめ)のように鍛えられ、右側は杢目肌(もくめ)板目、柾目(まさめ)と木の肌目を見るように鍛錬されています。
(写真)二上山のサヌカイトはこういう石です。これが北海道の白滝の黒曜石です。どちらも非常に硬度が高くて割ると鋭い刃物になるわけです。
(写真)これは刀を鍛錬する炉なんですけれど、今も島根県で年に数回、炉に入れてで玉鋼(たまはがね)をつくっておられます。このように専門のたたらを作る人たちが現在も継承されています。(写真)このように砂鉄とそれから炭を入れてまだ砂鉄の入れて炭を入れてと三日三晩寝ずに炊き続けるわけです。三日の朝になると炉を一気に壊して 底ににできたのが鉧(ケラ)です。(写真)そして鉧出しの様子です。私も見学に行きましたが非常に高温で大変な作業です。そしてできたのが(写真)玉鋼(たまはがね)で、銀の燻のようにギラギラと光っていますが刀剣の材料になる鋼です。
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里山自然環境ボランティア活動
これは現在の堂山古墳と活動の様子です。史跡広場は教育委員会が所管していますが、堂山竹林は総務課の担当ということで府立野崎高校の生徒たちと先生方も含めた野崎里山ボランティアの会と、だいとう森づくりクラブとの合同で竹林整備を行っています。そして竹林整備の中で地域の小学生、中学生に自然観察や竹伐り体験など、竹細工を作ったり、ミニ門松を作りしています。そして4月の中頃に開催するたけのこ掘り大会は市民が自由な参加で実施しています。
この堂山にはあまり公表できないのですが金襴も生えていますが、金襴はこの環境であるから生息するわけですので、抜いて持ち帰ってもこのように咲くわけではありません。そして竹のところに高級料理として食べられるそうですがキヌガサタケが生えています。そして堂山にはこのように以前はいなかったイノシシが生息しています。イノブタが野生化した猪です。これは尻尾を観ていただいたらわかりますようにドーナツ状の模様がある、これはアライグマです。アライグマも大変作物を荒らしたり色々な病原菌も持っていますので大阪府では駆除対象になっています。年末になりましたら、しめ縄作りミニ門松をつくったりしてお正月を迎えるということを行っています。
以上で終わります。ご静聴ありがとうございました。
尾崎 明幸 (おざき あきゆき)
寝屋川・恩智川流域環境フォーラム代表
だいとう森づくりくらぶ代表
大東市文化財保護推進会会長
刀剣研磨師