【ツアー】国史跡・飯盛城を歩き、学ぶミニトレッキング

【ツアー】国史跡・飯盛城を歩き、学ぶミニトレッキング

寝屋川・恩智川流域探訪3~戦国期の野崎と寝屋川流域~
国史跡・飯盛城を歩き、学ぶミニトレッキング

戦国時代、三好長慶が摂津、京、河内の要衝として飯盛山を 拠点として活躍。寝屋川・恩智川流域の中でも歴史的に重要な 地域であるとともに、山城の実態が残っていることでも歴史的 に重要な史跡として注目されています。 近年学術研究が進み、飯盛城のことが解明されてきました。城址に残る戦国時代の石垣、土塁、曲輪、堀切などの実際に歩き、 当時の流域の地形を顧みながら、流域の特性、戦国時代の河川、 貯水池、街道の役割を学びます。

ノルディックウォークでトレッキング

キャンピィ大東を出発点として、飯盛山に点在する 飯盛城城址をノルディックウォークをしながら移動 し、史跡の学習をします。全行程 3 時間程度の運動で体を動かします。高低差 150m ほどの初心者向けトレッキングコース です。山道を歩きやすい靴、服装でご参加ください。


*大東市産業・文化部生涯学習課(編集)、四條畷市教育委員会教育部スポーツ文化財振興課 飯盛城跡ー石垣ガイドより

飯盛城跡の概要

飯盛城跡は大東市・四條畷市にまたがる飯盛山の山頂に築かれており、城域は東西約400m、南北約700mを測ります。

享禄3年(1530)木沢長政の居城として文献上はじめて登場し、その後城主は、安見宗房を経て、永禄 3年(1560)には天下人・三好長慶が居城とします。そして、当時の日本の中心であった京都と五畿内を支配する三好政権の拠点や文化交流の場となりました。

城は北エリアと南エリアで機能が分かれており、北エリアは防御空間、南エリアは居住空間であったと考えられます。発掘調査の結果、北エリアのV郭(御体塚郭)では曲輪の南東から㙛(せん~瓦と同じ素材の四角形の板)を用いた建物跡がみつかり、瓦や壁土、大量の鉄釘、特殊な用途の台付き皿が出士しました。

南エリアのVⅢ郭(千畳敷郭)・IX郭(南丸)でも建物の柱を支える礎石がみつかったことからら、礎石建物の存在が推定されます。

この調査成果から、飯盛城は織田信長によって完成される高石垣や天守を備えた「織豊(しょくほう)系城郭」に先行して、「石垣・礎石建物・瓦」の3つの要素を取り入れた城であることが明らかになりました。

城を破却した痕跡は認められないことから、城跡は、飯盛城が城郭としての機能を失う永緑 12年(1569)頃の姿を留めていると考えられます。

石垣を多用した山城

飯盛城跡には、要所に石垣が築かれていることは以前より知られていました。しかし、平成28年度から3 ヶ年にわたる詳細分布調査によって、虎口以外に石垣が存在しないと考えられていた南エリアのVⅢ郭( 千畳敷郭)で全長22mにおよぶ石垣(写直7)を発見しました。この発見により、城の全域に石垣が用いられていた可能性が高まり、戦国時代末期では珍し い本格的な石垣を多用する山城であることが明らかになりました。

石垣の分布

飯盛城の城域には多くの石垣が築かれていますが、その分布は北エリアの東側に集中しています。特にⅠ郭(高櫓郭)や曲輪群B、V郭((御体塚郭)や曲輪群Eに石垣が多く築かれています。また、南エリアの虎口にも石垣が築かれています。東斜面には権現川沿いから城に至る登城道があった可能性があり、飯盛城を訪れる人々が通る場所から見え る位置に多くの石垣が築かれたと推定されます。石垣を登城道から見える位置に築くことで、城主の威光を示したと考えられます。

石垣の特徴

石垣は自然石を亜直に近い 配で積んだ野面積みです。また、排水機能を高めるために石垣の背面には罪右が充されています。石垣は幻配が亜直に近くなるほど高く積むのが難しくなります。そのため、飯盛城では1段目の石垣を積んだ後に大走状の平坦面を設け、さらに2段目を積む段築状石垣とし、高く見せる工夫がされています(石垣1と石垣69など)。延長の長い石垣では、崩れるのを防ぐために個角部(出角)が構築されています(石垣69)。

石垣石材

飯盛山は花高岩類で形成されており、山中では節理(岩石の割れ目)の発達した花商岩の露岩が見られます。築石に割った疲跡が認められないことから、石垣石材は付近の露岩から節理を利用して採石されたと考えられます。

飯盛城跡に残る石垣を見ていくと、石垣石材の調達方法や、石垣を崩れにくく、高く積むために施された工夫がわかります。これらは戦国時代の土木技術であり、石垣は当時の技術を現在に伝える貴重な遺構といえます。

*大東市産業・文化部生涯学習課(編集)、四條畷市教育委員会教育部スポーツ文化財振興課 飯盛城跡ー石垣ガイドより    

歩いてみました

(コース)大東市立野外活動センター(キャンピングだいとう)~虎口~南丸~千畳敷~高櫓郭~本郭~御体塚~VI郭(最北郭)~馬場跡(楠公寺)~大東市立野外活動センター(キャンピングだいとう)

虎口~こぐち
(石垣30.31)

虎口(こぐち)とは、城、あるいは曲輪の出入り口のことを言います。虎口は、千畳敷郭南方、南丸の直下にあり、飯盛城の南門にあたります。虎口の両脇には石垣が残っています。

左側の斜面は南丸の切岸で、その上辺には南丸の土塁が構えられています。虎口直前で土橋状になった登城口から虎口まで、一列になった敵兵に向けて、南丸からの横矢がかけられる仕掛けになっています。

さらに、たとえ敵兵が虎口を破って、後の枡形を思わせる曲輪に侵入しても、正面の切岸の上からの攻撃で立往生し、この曲輪の中で四方から矢を射かけられることになったことでしょう。

この虎口(こぐち)がいわゆる大手門にあたるかどうかは定かではないですが、飯盛城は、その南方、龍間方面からの尾根道が唯一の弱点であるため、その防御は厳重を極めています。
大手門にふさわしいともいえるものでしょう。

IX郭(南丸)
土塁~どるい

城の中でも最南端に築かれた曲輪で、南エリアの防御を担っていたと考えられます。

曲輪の防御力を高めるために、土を積み上げ、たたき締めて作られた壁が土塁です。

平地では濠をうがち、そこで出た土を積み上げる掻揚(かきあげ)土塁が主ですが飯盛山のような山城では、斜面を削った切岸とセットになる場合が見られます。

東端に沿って連なる土塁は、南丸の平面から2メートル近い高さが残っており、土塁の東斜面は10メートル近い切岸となっていて、虎口を見下ろして、横矢を掛ける絶好の場所となっています。

VⅢ郭 (千畳敷郭)

居住空間であった広大な曲輪を造成するために、土を削ったり盛ったりする大土木工事が行われたことが発掘調査で判明しました。尾根の西側の土を削り、それを北東傾斜面に10〜20cmの厚さで平らに薄く十数回敷きならす工法で盛士をして平坦面を広げており、その厚さは深いところで約2mありました。

IX郭(南丸)・VⅢ郭 (千畳敷郭)では壁士がみつかっています。壁の骨組みとなる竹で組まれた木舞は残存していませんが、木舞痕が残っていました。

木舞痕

堀切 (ほりきり)

堀切とは、日本の城郭において造られた防衛設備の名称です。敵が峰の上を伝ってやって来るのを防止するために、峰の方向に垂直に造る堀のことであり、通り道が途中で遮断されるので、攻め手は進行が困難になります。なかに水を入れない空堀の一種です。要所要所に大規模な堀切が造られた、ダイナミックな構造も飯盛城跡の見どころのひとつとなっています。

VⅢ郭 (千畳敷郭)とⅠ郭(高櫓郭)の間に構えられた堀切によって主尾根筋が遮断され、城の北エリア(防御空間、宗教域)と南エリア(居住空間、馬場)に分かれます。

土橋 (どばし)

曲輪と曲輪を分断する堀切の一部を幅1メートル程度の堤状の道として残したものです。平時は曲輪間の連絡路に使いますが、戦闘時にはこれを壊して曲輪の防衛力を高めることもできます。

土橋を残したままにした場合でも、攻城側が侵入するには一列になって進まざるを得ないため、守備側は攻め上がる敵兵を狙い撃ちできる地点となります。

千畳敷郭と高櫓郭の間の堀切に、明瞭な形の土橋が残っています。現在の土橋の両側面の堀切は土が堆積し斜度も緩くなり、木や草が生い茂っているため、渡るのにそれほどの恐怖感はないですが、当時は土橋の両側はほとんど絶壁に見えたはずで、高櫓郭の守りを鉄壁にしていたと思われます。

Ⅰ郭(高櫓郭)~たかやぐらかく

飯盛城跡の尾根筋のほぼ中央部で最高所(標高314m)となる高櫓郭と呼ばれる主郭。もしかすると、かつて、三好長慶の屋敷があったのかもしれません。

現在はNHK大阪FMや在阪FMラジオの基幹送信所と飯盛城址石碑、楠木正行の像があります。正行は正成の子で、飯盛山城の麓で繰り広げられた四条畷の戦いで戦死しました。

Ⅱ郭(本郭)~ほんくるわ

展望台があります。大阪市内を見下ろし、北摂の山々、六甲山、淡路島、お天気の良い日は長慶のふるさと四国も望むことができます。

石垣はすでに崩落している個所もあり、とぎれとぎれにしか見えませんが、かつては本郭の周囲をぐるりと石垣が取り巻いていたことが想像できます。

(石垣 6.7)

本郭の北にある蔵屋敷郭の西側急斜面に残る石垣です。西側斜面には石垣があまり見つかっていませんが、決して作られなかったわけではないようです。既に崩れ去ってしまった可能性もありますが、今後の発見があるかもしれません。この石垣は北条神社からの登山道を登ってくると、曲輪到着の直前に見えます。山麓などから見える場所に築くことで、城主の威光を示したものと考えられます。


V郭 (御体塚郭)~ごたいづかくるわ

周辺の石垣調査で瓦が見つかったことから建物の有無を確認するため発掘調査を行った結果、約30m四方の㙛(せん~瓦と同じ素材の四角形の板)が並んだ状態でみつかりました。建物の土壁の裾に㙛を張り付ける㙛列建物は約4×6mの規模だと推定されます。

また、㙛列建物付近で、台付きの灯明皿(高さ2.6cm)が見つかりました。似た形状のものに「こんばい」という春日大社(奈良市)で使用されている台付きの皿があります。奈良には三好長慶の家臣松永久秀が居城とした多聞城があり、飯盛城との間で活発な行き来があったとみられ、両者の関連が想定できます。

V郭(御体塚郭)は宗教的な空間だった可能性があります。

台付きの灯明皿(高さ2.6cm)

堀切 (ほりきり)

堀切とは、日本の城郭において造られた防衛設備の名称です。敵が峰の上を伝ってやって来るのを防止するために、峰の方向に垂直に造る堀のことであり、通り道が途中で遮断されるので、攻め手は進行が困難になります。なかに水を入れない空堀の一種です。要所要所に大規模な堀切が造られた、ダイナミックな構造も飯盛城跡の見どころのひとつとなっています。

VI郭(最北郭)

眺望がすばらしく、大阪府北部から京都市内、奥には比叡山の山並も望むことができます。飯盛山史蹟碑があります。

(石垣 18)

V郭(御体塚郭)の北東斜面に築かれた石垣です。南東側は崩落していますが、当時はV郭の北東から南東斜面を巡っており、権現川沿いの登城道からの視覚的効果を狙ったものと考えられます。

(石垣 14.15.16)

石垣14と15は、両石垣の接点が入角となる一連のもので、その上部のハイキング道は帯曲輪と考えられます。石垣16は南東へと続き、その上段の曲輪は東山麓からの登城道であったと推定されます。

(石垣 54)

築石が3段のみ残り、最上段に積まれた天端石は残っていません。石垣54と石垣3・4は飯盛城の中でも高い場所に築かれた石垣です。石垣前にはハイキングルートが通っており、目の前で石垣を見学することができます。

(石垣 3.4)

Ⅱ郭(本郭)の中心となる曲輪の北西側の斜面下に築かれています。石垣3と石垣4は一連の石垣であると考えられます。石垣3・4の北西面下には石垣 54が築かれており、その位置関係から段築状石垣であった可能性があります。

(石垣 1)

Ⅰ郭(高櫓郭)とⅡ郭(本郭)の東面下に築かれています。長さは約24m、高さは最大で約2.6mを測ります。石垣前面のハイキング道斜面下には石垣69が築かれており、段築状石垣であることがわかります。*平成30年7月豪雨で石材の一部が崩落したため、現在は応急保護措置を施しています。

(石垣 69)

石垣1の東斜面下に位置しています。石垣の上は現在のハイキング道が通っており、かっては帯曲輪であったと考えられます。石垣の長さは約44mあり、石垣が崩れないように隅角部(出角)を築いて石垣を補強しています。

X郭 (馬場)

馬場跡と伝わる場所に飯盛山に楠公寺があります。

*大東市産業・文化部生涯学習課(編集)、四條畷市教育委員会教育部スポーツ文化財振興課 飯盛城跡ー石垣ガイドより    
*四條畷市教育委員会教育部スポーツ文化財振興課(編集)・大東市産業・文化部生涯学習課 国史跡飯盛城跡パンフレットより 
*大東市HPより

飯盛城跡国史跡指定記念アクロス歴史文化カレッジ2021 

アプリ『よみがえる飯盛城~「天下人」三好長慶 最後の居城』

大東市および四條畷市にまたがる国史跡飯盛城跡の1560年代頃の様子を再現したCGアプリ『よみがえる飯盛城~「天下人」三好長慶 最後の居城』が公開されています。

1560年代の飯盛城・天下人が望む山頂風景をCGで再現
大東市オリジナル『CGVR・ARスマートフォンアプリ』を公開

インストール方法(市ホームページ やチラシにも QR コードを掲載)

【iPhone】https://apps.apple.com/app/id1615348081

【Android】https://play.google.com/store/apps/details?id=jp.co.xeen.iimori

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